Creative Light~美しい人とものたちを編んでつくる世界~

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人は、コントロールや理解することができない「自然」に対して
畏敬の意を昔から表現してきました。

近い未来には、自然以外にも
人間が理解出来ないものが生まれるかもしれないなーと
ちょっとわくわくしています。

ここ数年、急速にリアルな手触りとして存在を感じつつある
「人口知能」についてが今日の主題です。



最近、人工知能は急速に発達していっています。
その発達の土台となっている技術が「ディープラーニング」というもの。

今までは、Aという案とBという案のどちらがよりよい選択なのか?
という<評価>を人間が、ちまちまと設定していたようなのですが、
「ディープラーニング」という技術を取り入れた人口知能の学習では
人工知能が膨大なデータを基にして、
人工知能自身で<評価>をして、学びを深めていくことができる、らしいのです。

ディープラーニングが広く取り入れられる前には
人工知能の発展スピードは足踏み状態であったのが
広く取り入れられるようになってからは、人工知能の’知能’の成長は目覚ましく、
アルファ碁という碁のソフトウェアは、世界的にも強いといわれている方に勝ってしまったのだとか。
今では、プロの碁を打つ方たちが、アルファ碁の打ち手を研究しているという程。

人工知能が人間を超えるのなんて、まだまだ先の話・・・と思っていましたが
実は既に、人工知能の方が、人間の知能を上回っているといえる分野もあるのだなぁと
のんきな私としては驚いてしまいました^^



そんな人口知能に対して、警鐘をならす方も少なくありません。

いくつかの論点があるようなのですが、
私が特に気になったのは「ブラックボックス化」している、という点。

先ほど説明したように、
現在、人口知能の開発現場においては、ディープラーニングという技術が
広く取り入れられており、人口知能自体が<評価>することが出来るようになっていっています。

という事は、人工知能を開発しているひとにすら、<評価>の内容は分からない状態にあります。
そのため、どのように人工知能がその解を導いたのか?
ということも分からないというブラックボックスのような事態が生じています。

近い未来、人工知能に何かの問いに対する答えを聞いたときに、
自分の予想とは全く違った答えが返ってきた!となったら、
人は一体どんな反応をするのでしょうか?
もっと言えば、「私」ならどうするのだろう?と、どきどきしながら思案してしまいました。

答えの妥当性を上手く自分で飲み込めないと、
それを受け容れることが出来ない性分なのは私だけなのでしょうか。

・・・ちなみに、人工知能といえど間違える可能性は0ではありません(*^^*)



人は"正しい"答えを選ぶのがいいのか?
それとも、自分が"納得"した答えがいいのか?

という二択ともいえるのかもしれません。

どちらも間違えるリスクはありますが、
そうなった時にどちらの選択肢なら
自分がその責任を引き受けられるのでしょうか。

人工知能は、最先端の技術であるはずなのに
ある意味、占いに近い存在なのかもしれません。
何でその答えになるかは分からないけれど、
そうするといいっぽい、というような。

そして、最終的に選択するのはあくまでも自分である、という点も似ていますね(#^.^#)

人工知能と一緒に生きる未来に、実際に自分がどんな選択をするのか?
ちょっとドキドキしながらも、その未来が実現することを楽しみにしています。

「自分の感受性くらい」

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木のり子さん 「自分の感受性くらい」より

いろいろあっても、自分と向き合って頑張ろうと思う(^^)

茨木のり子さんの詩は、かっこいいな。

「なれる」「知命」も好きです。

911の時、TVのニュースで
「罪のない人が被害にあいました。テロリストはなんて残忍なんだ。」
という内容を繰り返し、繰り返し伝えていた。

当時、中学生だった私は
「本当に罪がないのかな?」と疑問に思ったのだった。

もちろん、亡くなった方の冥福をお祈りしているし、
世俗的にその方たちが何か罪深いことをしている、という指摘ではなくて。

もっと全体感としての話。

先進国に生まれ、育ち、豊かな教育をへて、きちんと就職しているひとたち。
・・・・もしかしたら、「わたし」も含むのかもしれない。

そんな人たちが、世界のひずみに目を背け
あるいはむしろそのひずみを積極的に利用して利益をあげたり
その商品やサービスをそしらぬ顏で享受したりしている。

そして、そんな罪の自覚もなく、
豊かに生きているということを有難く感じることもなく。
ただ、生きている「わたし」

それって本当に罪がないのかな?と。



当時そんなことを考えていたことを
西加奈子さんの「i」を読んでいたときに、ふと思い出した。

無題
(amazon.co.jpより抜粋)

アメリカ人の父と日本人の母のもとへ、
シリアから養子として日本にきた主人公の曽田アイ。

祖国のシリアの状況と日本にいる自分の状況のギャップに苦しみつつも
進学、結婚妊娠をへて、自分の暮らしの中に小さなひかりを捉えようとする物語。

内包しているテーマは「格差」「LGBT」など重いですが、読後感はいいですよ^^

西加奈子 「i」

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